ニコラエフスク・ナ・アムーレ (Nikolayevsk-on-Amure)
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清代もアイグン条約で割譲されるまでは清の領土であった. この町もかつては中国語で「廟街」(ミィアオジエ、 Miàojiē)と呼ばれており、サハリンなどとの毛皮貿易で栄えていた.
日本の探検家・間宮林蔵は1809年、樺太およびその対岸のアムール川下流探検の際に『東韃地方紀行』という記録を残しているが、この中で「フヨリ」と彼が呼ぶ町のことに触れており、これは現在のニコラエフスク・ナ・アムーレに一致するとみられている. 彼は、当時清の黒竜江将軍の管轄下にあったアムール川の左岸を探検し、その中でいくつかの町を訪れている.
19世紀半ば、ロシア人は清の領土だったアムール流域がほぼ手付かずで管理が行き届いていないことを知り、アムールを遡上しての調査に着手した. ニコラエフスク哨所は1850年8月13日、アムール川河口から遡上したゲンナジー・ネヴェリスコイ(Gennady Nevelskoy)らによって設置された. この駐在所は町としての資格を認められ、沿海州が設置された1856年にコラエブスキーからニコラエフスクに改称した. 清のアロー戦争敗北後、外満洲一帯は1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でロシア帝国に割譲され、この地もロシアの一部となった.
1865年、町は沿海州の州都になり、州知事の任地に指令されて、ロシア極東で最初の新聞が発行された. この新聞は1920年まで続いていたが、赤軍パルチザンによって廃刊させられた. この地方では毛皮などの交易が盛んで、外国人貿易商、わけてもアメリカ商人は、住み着く者も多かった.
1861年(文久元年)、箱館奉行は、武田斐三郎を航海の責任者として交易船を仕立て、ニコラエフスクに派遣した. 塩飽諸島の粟島に伝えられていた『黒竜江誌』によれば、支配調役・水野正太夫以下、諸術調所教授・武田斐三郎、医師・深瀬洋春、貿易商・紅屋清兵衞、ロシア語通訳など41人が亀田丸に乗り組み、箱館から35日間の航海でニコライエフスクに到着し、46日間滞在した. 一行はロシア鎮台府の盛大な歓迎を受け、軍事施設や要害を見学した. この来訪は、ロシア側の東シベリア総督府にも記録が残されている. それによれば、在箱館ロシア帝国領事館から、事前に「日本が洋式スクーナー船を派遣するので歓迎してくれ」と要請があり、ある程度日本語がわかる領事館付きのロシア人見習い水夫も同行していた. 日本側の目的は、洋式船での航海修業、港湾の水先案内や法令、制度などの見学、要塞の視察、貿易の可能性の調査と、多様だった.
1869年(明治2年)、日本公務弁理職(総領事)に任じられたフランス人のモンブラン伯爵が、樺太領有権問題にからんで、ニコラエフスクがロシア側の樺太開拓基地となっていることを、日本の外務省に報告している. 武器製造工場があり、ヨーロッパから運ばれた武器もここに備蓄されている、というのであった.
1878年、海軍施設が建設途上の不凍港ウラジオストクへ移設され、シベリア艦隊が母港を移したことがひびいて、ニコラエフスクはさびれた. 1890年にニコラエフスクを訪れたアントン・チェーホフは、宿を見つけることもできなかった. 「いまでは家屋の大半は家主たちに見すてられ、なかば崩れて、窓枠のない黒いいくつもの窓が、頭蓋骨の眼窩のようにこちらを見つめている. 住民たちは眠りこけたような酒びたりの生活を送って、総じて食うや食わずの、その場しのぎの暮らしをしている」と、チェーホフは記した.
1886年(明治19年)にニコラエフスクを訪れた黒田清隆も、「市街中いたるところに廃屋空き屋がある」と記している. 当時の人口は1,971人にすぎず、入港する艦船も年間20隻ほど. 「陸運が発達してきているので、やがてこの町は見捨てられ、ただの漁村になるかもしれない」との感想を黒田は抱いた.
しかし1890年代には、毛皮貿易と金鉱にくわえて、なによりも漁業が発展し、町は繁栄をとりもどした. シベリア鉄道がなかった当時、ニコラエフスクには、河川交通によってシベリア内陸部へ通行できるという利点もあった.